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キングス・クロス駅の写真です。あなたの感じるところを述べなさい。


順天堂大学医学部 2015年度 入学試験 小論文問題より

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     この写真を見て映画『アンタッチャブル』のシカゴ・ユニオン駅での有名な銃撃戦シーンを思い出す人はかなり多いのではないかと思う。

     暗い階段には場違いな鮮やかに赤い風船の存在は、あの銃撃戦シーンで階段から落ちることになる乳母車と同じく、画面の中で不協和音を生じており、不吉な何かを予感させる。

     あらためてこの写真の構図をみると、階段上方の男を下から狙撃しようとしている狙撃手の主観目線のアングルにも思えてくる。

     そういえば地下鉄の細くなった階段通路では、空気の流れが急に狭まるため、よく突風が吹く。狙撃手が男を狙い緊張するその瞬間、突風が吹き、手すりに結ばれている風船が激しく揺れて破裂するかもしれない。すると狙われていた男はそれを銃声と勘違いし、すばやく振り返ってコートの中に隠し持っていた銃で応戦する。思わぬ契機で銃撃戦がはじまってしまった!破裂せず残っていたもう一つの風船も、激しい銃撃戦の中でいずれ撃ち抜かれ破裂するのだが、その破裂音は多数の銃声にまぎれて、もはや聞こえない――。映画監督になったようで楽しくなってきた。

     空想に耽って映画監督ごっこをするのはとても楽しいのだが、空想話ではなく〈現実の私〉はこの写真から何を感じるのか、それを考えてみたい。

     そもそも「この写真から【何か】を感じる」とは、どういうことだろうか。

     「感じる」というからには、あたりまえだが「この写真」は〈私〉に何か【作用】を与える存在で、その【作用】を〈私〉が感じるわけだ。ではその【作用】とは何か。

     この【作用】とは、〈私〉にとってどういう【意味を成す】かということだ。だから例えば、「自分に何も作用しない」つまり「自分にとって無意味な存在」だと思えば「何も感じない」。

     したがって「あなたが感じるところを述べよ」という問いは、「あなたにとって何を意味するか述べよ」と言い換えられる。

     ところで私は今、一見自分にとって無意味としか思えない写真を見せられて、「あなたにとって何を意味するか述べよ」と言われているわけだ。

     半ば無理やり「意味」を答えようとするとき、まず取りかかる作業は、次の二つのどちらかになる。一つは、自分で「意味」を作り出しあてはめること。もう一つは、撮影者が伝えようとした「意味」は何かを考えること。


     私たち人間は、人生の目的、生きる意味を考えずにはいられない存在だ。できればそんなことは考えず、先ほど空想に耽って映画監督ごっこを楽しんだように、与えられた人生をただただ楽しく過ごしたいと願う私のような人も多いだろうが、なかなかそうはいかず、人は、ふとしたときや苦境に立たされたとき「なぜ生きるのか」生きる意味を考えてしまうものだ。

     現代に生きる私は、究極の生きる意味は分からなくても、漠然と思い描く将来の夢や希望や幸せに向かって、日々なんとなく生きている。この夢や希望や幸せは、いわば【自分で作り出した生きる意味】だ。

     しかしそれは、私が比較的平和な状況に生きているからであって、人は戦争や災害、家族の死や自分の病気などの極度の身体的・精神的苦痛の中で、「誰にも必要とされていない」と猛烈な孤独を感じたり、「むしろ誰かに依存しなければ生きることさえできない」と猛烈な絶望感に苛まれたとき、「それでも生きる意味はあるのか」と生きる意味を問わずにはいられないだろうが、そのときかつて平和な状況下で思い描いていた夢や希望や幸せ、つまり【自分で作り出した生きる意味】など、到底その答えにはならないだろう。

     私がもしそんな極限状態で「それでも生きる意味はあるのか」と問わねばならなくなったら、まず、自分をこの世に誕生させた親を恨むかもしれない。その後、少し冷静になったなら「なぜ生かされているのか」自分と世界を作った「神」の意図を考えると思う。私は特定の宗教を信仰しているわけではまったくないが、そのとき、自分を作った創造主に「自分の存在にはどういう意味があるのか」を問わずにはいられないのではないかと思う。また、そのような極限的な状況になればなるほど、ますます強く「生きる意味」を問わずにはいられないだろう。

     それはなぜか。

     想像を絶する苦痛と孤独と絶望を伴う極限状態でも、すべてを超越した「神」のいわば無限遠からともいえるような完全なる視点を想定することで、人間は冷静な精神を取り戻すことができるのではないか。それをほとんど本能的に行うことが「神に【自分の存在理由】つまり【生きる意味】を問う」という行為だと思う。ここに宗教のはじまりと必然を説明できる可能性がある。平和な状況下では、宗教の役割が低下することも説明できるだろう。


     ここで、もとのキングス・クロス駅の写真に戻ってみよう。

     風船は本来、広大な青空をどこまでも高く高く飛んでいくべき存在なのに、地下の薄暗い通路の手すりにつながれたままのこの赤い風船は、悲しいまでに不自由な存在だ。その不自由さゆえに、この風船は神に自らの存在理由を問わずにはいられないかもしれない。

     それに対して階段を歩く男は、現代技術の産物である便利な地下鉄に乗り、どこへでも自由に移動できる。通勤ラッシュやそりの合わない上司にストレスを感じることもあるが、ここ数年は会社の業績がよいので年2回のボーナスの額に不満はなく、人生の意味など、一時不登校だった思春期以来、一度も真剣に考えたことがない。

     自由で平和を享受している男が、薄汚れた暗い地下鉄の風景と同化するほどくすんだ色をしている一方、悲しいまでに不自由な風船が、薄暗い地下鉄の中で鮮やかな赤色を放ち、強烈な存在感を感じさせるのはいかにも皮肉である。


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